今日はちょっと暇なので、フィクションでも書いてみます。タイトルは無いです。落書きみたいなもんです。競馬伝説と一切関係が無いので興味がない方は今すぐリンクから王子のブログに飛んで下さい。
あれはちょうど10年くらい前だったかなー。
一番最初に働いたのは居酒屋。就職活動もまともにせずに遊びボケていたツケが回ってきてのアルバイト生活。作業はこなすものの、そこに全く責任感は無く、どこか適当な仕事ぶり。それでも新卒1年目の私に対する周囲の態度は寛容なものだった。
あの頃が懐かしい・・・。
なぜ10年前の事を思い出したのか。きっかけはつい最近、そこでお世話になった人から電話が来た事。もう50歳は過ぎただろうか?やや疲れたような声でゆーさんが話し始める。
「おぉ、久しぶりだなぁ。」
『そうですね。どうしたんですか?』
「あのよー・・・急で悪いんだけどよー・・・今いくらかでも金持ってないか?」
『え?・・・・・・いやー今全然無いんですよ。』
どういうことだ?何があった?と思いつつも普通に答える。
「そうかー悪かったな。今のは無かった事に・・・忘れてくれ。」
『えーわかりました。』
ごく自然な’’にこやかな声’’でそう答え、電話を終えた。
なんだったんだろう?
9年前にアルバイトを止めてからというもの、連絡は取り合っていないし、どこかでパッタリと出遭いでもしない限り、会う事も無かった。しかし、風の噂で宅配弁当売りをやってる事だけは知っていた。
もしかして、弁当売れ残って自己負担で買取とか?給料日前でその為の金がないとかなのかな?まあいいか。
それ以来すっかり連絡は無くなり、言われるまでもなく’’その一件’’を忘れかけていた。何の変哲もない日常生活を送っていたが、ふとした事がきっかけとなり、実は数年前から母や弟が度々ゆーさんの世話になっていたことを知る。
ある日、あぶく銭を手にした自分は母や弟達に大盤振る舞いをする。家族へお金を使う事はやはり特別だ。自分への浪費、あるいはそれ以上の価値を感じる事ができる。特に対象が弟達であれば、その気持ちは大きくなる。例えば、小学生の時に手にした千円は、今手にする一万円と同等・・・いや、考え方によってはそれ以上の価値があったように思う。子供の頃、自由に使える千円を手にして駄菓子屋に行った時の幸せや、公園で遊んでいていつの間にか無くなっていた五百円入りの小銭入れを失くした時の悲しみは、今では感じる事が出来ない程尊くて純粋な感情である。
それから数日が過ぎた頃だろうか。何の前触れもなく、突如としてゆーさんが職場に来た。
『あれ!?こんばんは。』
「おぅ、元気だったかー?」
『ええ、まあそれなりに。』
その後はよくある社交辞令とも言えるような適当な会話が進む。しかし、私の胸中は、急に目の前に現れるのはただ事ではない。そしてあまり良くない方の出来事だろう。という一種の予感のようなもので埋め尽くされていた。そして本題に入る。
「焼き鳥買ってくれないか?」
『どれくらいですか?』
「10本入りなんだけど500円でどうだ?」
『買います!』
たまたま好物だった焼き鳥で良かった。幸い’’例のあぶく銭’’もまだあるし。
『色々大変でしょうけど、まあ頑張りましょう。お互い』
「そうだな。」
『土曜でよければ毎週売りに来てもいいですよ』
「寄らせてもらうわ。ありがとねー。」
ゆーさんはそういって帰っていった。
この歳にもなれば、一応社会の仕組みは大体わかっている。互いの胸中や事情は話す必要がない。ある程度生きている人間なら話したくない事等いくらでもあるだろう。暗黙のルール’’困った時はお互い様’’である。
翌週になって約束どおり、弁当を買う。近くに美味しい出前をやっているところはいくらでもあるし、値段にしてももっと安い物がたくさんある。しかしそれでもゆーさんから五百円の弁当を買う。この日は応援も込めて2個買った。
その翌週もそうする予定であったが、この土曜日は’’あるアクシデント’’のおかげで急遽会社が休みになった。昼が近づいてきた頃、電話がなる。もちろん相手はゆーさんである。
「今日は休みかー?」
『えー。こんな状況ですからね。まいりましたよ。』
「そっかー・・・」
(ん?何だろう。こんな時でもやっぱり弁当売りたいのかな?)会話が続く。
「今は会社にいるのか?」
『いえ、お客さんのところですよ』
その日はたまたま、アフターサポート・保守といった類の仕事があった為、顧客宅にいた。さらに、ゆーさんが申し訳なさそうにして続ける。
「そっかー・・・どれくらいかかる?」
『夕方くらいにはなるかもしれません。』
「んー・・・急で悪いけど5,000円持ってないか?」
『・・・』
「貸してくれないかなー?」
『うーん。無いことはないですが・・・』
「明日には返すから・・・ちょっと貸して欲しいんだよな。」
金の切れ目は縁の切れ目が私の信条。数年前、20年程の付き合いがあった友人に金を貸したが、返ってこなかった。それどころか、数日もしないうちにその5倍程の額を理由も聞かずに貸してくれとまで言う。先に貸した分の返済が終わるまで連絡して来るな。と断って以来、数年間音沙汰はない。それだけに迷ったが、以前お世話になった借りがあるのも事実。
『わかりました。』
理由も聞かずに答える。というより聞く必要がない。相手が理由を言わないという事が、理由を物語っているからだ。
「どの辺にいるの?」
(えっ・・・今かよ・・・お客さんのとこにいるって言いましたよね?)内心そう思ったが、居場所を伝え、客に断って外出する。五千円は持っていなかったので、一万円を貸す事にした。ちなみにこの時は、9割方返ってこないだろう。という覚悟を決めていた。程なくしてゆーさんは現れ、金を受け取ってどこかへと車を走らせた。
翌日も、その翌日も返済はない。連絡も無い。
やっぱりこうなったか・・・薄々だが、始めからわかっていた。
理由も言わずに金を借りようとし、返す金のあても説明せずに、明日返す。と言う。この時点で返済の可能性は極めて低い。翌日は一般的に考えられる給料日ではなかったし、そんな日に返済金を工面できる人間ならそもそも金を借りる必要がないからである。だが、以前世話になったという借りがあったし、何より信じてみたかった。
そもそも、どうして普段よりお金を持っているタイミングで弁当を売りにきたのか?もしかしたら、今でも母や弟達と接点があって、私が大盤振る舞いした事を耳にしたのだろうか?その事を探ろうと思ったが、結局思いとどまった。仮にこのままお金が返って来なかったとしても、私がやっているゲームのガチャの回数が50~60回減る程度だろう。それよりも、何とかして得ようとした五千円が一万円になった喜びと、感じていたであろう申し訳無さと、今も感じているであろう罪悪感の方がはるかに価値がある。所詮はあぶく銭。私の手元から消える事に一切の苦痛はない。
ゆーさんの50年がどんな人生だったかは知らないが、少なくとも自分に仕事を教えてくれた時はまともに映っていた。人間低迷の時がそう長く続くとは思えない。いつか返せるようになる時が来るのではないかと思う。だから今回の一件は誰にも話さない。余計な詮索はしない。知っているのは私とゆーさんだけでいい。でも、私にだって思うところはある。この胸中、外に開放するとすれば、ここしかない。現実社会の私とゆーさんに影響が無いこの場所。
今日であれから丁度1週間になる。昼になれば電話がかかってきてゆーさんが弁当を売りに来る。その為に昼食を用意しないのが土曜日の恒例になっていた。そして先程昼食を食べ終えた。普段よりお腹を空かせて、10年前の事を思い出しながら食べた近くの出前屋のエビピラフは妙に美味しかった。
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